すっかりお腹が満たされた私は、陽が暮れかかった街中を灰嶋さんと歩いていた。

足の長い彼はお店に行く前は随分自分ペースで歩いていたけれど、今は足の短い私に合わせて歩いてくれているような歩調をしていた。

(気を使ってくれているのかな)

決して口に出して云われないけれど、何となくそう感じて私の胸はあたたかくなった。

「…ねぇ」
「はい、なんですか灰嶋さん」
「…其の呼び方、止めてくれる?」
「え、何でですか」
「苗字で呼ばれるの、厭だから」
「はぁ、そうですか。じゃあなんて呼んだらいいですか?」
「普通に薫でいいよ」
「呼び捨てですか?…いや、流石に6歳も年上の人をそんな風に呼べません」
「なんで?みんなそう呼んでる。年なんて関係なく」
「そういうものなんですか?でも私は呼び捨てには抵抗があるので…薫さん、でもいいですか?」
「…」

其れまで前方を見ていた灰嶋さんは一瞬チラッと私の方を向き、私と目が合うとまた直ぐにフイッと逸らした。

(あれ、ダメだったのかな)

さん付けで呼ぶのはそんなに悪い事じゃないと思っていただけにちょっと自信が無くなる。

「あの…灰嶋さ」
「…薫さんでいい」
「は」
「其の代わり僕も君の事名前で呼んでもいい?」
「別に構いませんけど」
「ルイカ」
「!」

何故か薫さんに『涙花』と呼ばれると胸がドキンとした。

(なんで、だろう)

「ねぇ、なんでルイカって名前なの?」
「あ、お母さんがつけたんですけど、長い人生で流す悔し涙や嬉し涙はやがて大きく花開くために必要なものだという事から転じてかけがえのないものという意味が込められているそうです」
「…へぇ」
「おかしいですか?」
「別におかしくないよ。いい名前なんじゃないかな」
「…」

(そっか、おかしくないか…よかった)

田舎の人たちが最初私の名前を訊くと大抵眉をひそめるんだけど、やっぱり都会では何てことない普通の名前なのかなと思った。



最寄り駅から歩いて5分程。

立ち並ぶマンション群の中の一棟に薫さんは入って行った。

其のマンションはざっと見10階以上はありそうな高級マンションだった。

(ふあぁ…何、このマンション!)

テレビの中でしか見た事のない風景にただただ驚くばかりだった。

そんな私を大して構う事無く、薫さんは手慣れた様子でどんどん中に入って行った。

「薫さん、こんな凄い処に会社があるんですか?!」
「会社兼自宅だよ」
「え」

薫さんの其の云い方に違和感を覚えた。

(会社と自宅が一緒って…どういう事?)

訳が解らないままエレベーターに乗り込み、最上階で降りた。

呆気に取られたまま歩いて行くと、やがてある部屋の前で薫さんが止まった。

「此処」
「あ…はい」

チラッと私の顔を見て、そして薫さんが呟くように云った。

「…根性あるって信じているから」
「? あの、今なんて?」

あまりにも小さな呟きだったからちゃんと訊けなかった。

そんな私を余所に薫さんはカードキーを差し込み玄関ドアを開けた。


──瞬間


ガンッ!

「!」

いきなり部屋の中から何かが飛んで来てビックリした。

「な、何っ!」

玄関ドアにぶつかって落ちた物を見ると、其れは小型のフライパンだった。

(嘘っ!こんなものが当たったら怪我しちゃうんじゃ)

少しへこんだフライパンを見てゾッとしている私を横目に薫さんは平然と靴を脱いで中に入って行った。

其れに続くように私も靴を脱いで、屈んで揃えているといきなり

「てめぇ、遅いんだよ!迎えに何時間かかってんだよ!」

「!」

後ろからとても恐ろしい罵声が聞こえて来て、其の声に驚いた私だった。

蒼い樹が薫る
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